鹿島アントラーズ興梠慎三10年連続2桁得点へ。経歴・プレースタイルを解説

「何でも屋」と言えば表現が安いが、寡黙に淡々と仕事をこなす姿はまさに職人だ。シュート、裏への飛び出し、ポストプレー、パス、ゲームメイクまで・・・。この男にできないプレーなどないと感じさせるほどのサッカーセンスと身体能力が光る。多くは語らず、普通に、自然体に、ひょうひょうとプレーする姿は相手DFにとっては憎いばかりだ。

通算Jリーグ通算157得点が実力を物語る(2021年3月10日現在)。右足、左足、ヘディングから精度の高いシュートを繰り出し、ゴール前の冷静さは自信の表れだ。スピードと力強さ。それだけでなくトリッキーなターン、ヒールパスで相手の意表を突き、観客を魅了する。柔らかさも天下一品だ。さらに守備までも献身的にこなす日本を代表する万能型FWを徹底深堀りしていきたい。

興梠慎三の選手紹介

Jリーグ通算157得点は歴代3位(2021年3月10日現在)。この数字が物語るように日本屈指の点取り屋だ。右足、左足、そして頭とどこからでも点が取れ、意外性あふれるテクニックからチャンスメークも武器。FWらしくないとも言われるが、それゆえの冷静さは相手を不気味に脅かす。175センチと大柄とは言えない体だが、フィジカル、球際に強く、磁石のように吸収するコントロール、そして芸術的な浮き球の処理から繰り出すポストプレーで攻撃の起点となれることも大きな魅力だ。

宮崎・鵬翔高時代は「南国のロナウジーニョ」と呼ばれ、名門・鹿島アントラーズからプロキャリアをスタート。鹿島では2007~09年にリーグ3連覇をはじめとする数々のタイトルに貢献した。

浦和移籍後も類まれな得点能力を武器に17年のAFCチャンピオンズリーグ制覇など、日本にとどまらない活躍をしてきた。20年には在籍8年目で浦和でのJ1通算100得点を決めた初めての選手となり、Jリーグ史上初の9年連続で2ケタ得点を達成した。

今季はケガで出遅れるかと思いきや、驚異の回復力を見せ、3月10日のJ1第3節横浜FC戦で復帰。初の得点王にも期待がかかる。

興梠慎三のプロフィール

生年月日 1986年7月31日
国籍 日本
出身 宮崎県宮崎市
身長 175㎝
体重 72㎏
利き足
ポジション FW
背番号 鹿島アントラーズ:30
タイトル Jリーグベストイレブン:1回(2017年)
Jリーグ優秀選手賞:4回(2016年、2017年、2018年、2019年)
J1リーグMYアウォーズ ベストイレブン:1回(2016年)
J1リーグ月間MVP:1回(2017年4月)
J1リーグ月間ベストゴール:1回(2016年3月)
浦和レッズ後援会 会長賞:2回(2017年、2019年)
SNSアカウント (@kshinzoreds30) / Twitter

興梠慎三の経歴

今や浦和の顔として君臨している興梠だが、プロ入り前まではサッカーを諦めかけたことも。当時から卓越していたサッカーセンスや鹿島や浦和での実績を紐解いていく。

通算得点J歴代3位!天才ゴールゲッターが数々のタイトルもたらす

1986年7月31日、興梠家の次男として誕生。姉と兄がおり、出生体重は、3200グラム。末っ子として可愛がられ、温厚な性格に育った。

幼少期から足は速く、当初はソフトボールに打ち込む少年だったが、小学5年時に母の勧めで宮崎東SSSサッカーを始めると、最初に出た試合でいきなりハットトリック。半年で九州選抜に選ばれるなど、センスは即開花した。当時、宮崎東SSSで1学年上でプレーしていた元日本代表で現在は横浜FCのDF伊野波雅彦は「ゴールを決めまくっている印象しかない」と語っており、宮崎県内では名をとどろかせていた。小学時代は全日本少年フットサル大会の出場経験もある。

高校受験に失敗し、恩師から運命の誘い

中学では部活こそ入ったものの、ほとんど練習に顔を出さなかった。高校ではサッカーをやらないと決めていたが、受験に失敗。高校進学を悩んでいたとき、県下の名門、宮崎・鵬翔高校の松崎博美監督からの電話を受けた。「サッカーをするなら入れてやる」と小学校時代から才能に注目していた恩師に誘われ、入学した。しかし、厳しい練習、上下関係に耐え切れず、夏には練習に行くのを辞め、学校にも行かなくなった。自宅で当てもなく過ごしていると、松崎監督から毎日のように電話が鳴り、説得され続けた。

ついに説得に応じた興梠は練習に行くと、1ヶ月も休んでいたのに起用され、1ヶ月もボールを蹴っていないのに決勝ゴールを奪って勝ってしまった。その後はドリブラータイプのMFとして活躍。2列目からの裏への飛び出しも得意とし、得点を量産した。高円宮杯では前田俊介率いる広島ユースの前に準決勝で力尽きた。選手権はベスト8敗退となったが、星稜の本田圭佑と高校サッカー界をけん引した。

鹿島入団、プロの壁厚くFW転向

高校時代から注目を集め、2005年に鹿島入団。背番号は「23」。当時のトニーニョ・セレーゾ監督に「潜在能力は小笠原満男に匹敵する。」と言わしめ、鹿島の監督を退任する際には「ブラジルに連れて帰りたい」と発言したほどだったが、ルーキーイヤーは8試合に出場し無得点。プロの壁にぶち当たった。MFとして加入したため、当時の中盤には小笠原満男、本山雅志、野沢拓也がおり、さらに増田誓志もブレイクし始め、出場のチャンスはなかった。加入から2年間でのスタメン出場はわずか2試合で得点はゼロ。このころからFWに活路を求めた。背番号を「17」に変更した3年目、2007年J1第14節大分戦でようやく初ゴール。28節の神戸戦ではマルキーニョスと柳沢敦の欠場で出番が回って来たチャンスで2ゴールをあげるなど、少ない出場機会で6ゴールをあげた。

翌2008年は前年に退団した柳沢の背番号「13」を希望し、ポジションも正式にFW登録とした。シーズン序盤はスーパーサブとしての起用が目立ったが、途中から完全にレギュラーを奪取。コンビを組んだマルキーニョスとはJ1屈指の2トップとなりJ1席巻。29試合で8ゴールを挙げ、チームのリーグ連覇にも貢献した。マルキーニョスとコンビ組んだことがのちの興梠を大きく成長させる。そして、この年は北京五輪代表にはメンバー落ちしたものの、岡田武史監督が率いるA代表に呼ばれ始め、同年10月に代表初キャップを記録した。

2009年に初の2桁得点、3連覇にも貢献

2009年は開幕直後にメンバー外になったものの第3節の広島戦、第4節の京都戦で2試連続決勝点を終了間際に決めた。夏以降ゴールに見放されたが、30節の千葉戦で14試合ぶり、およそ3ヶ月半ぶりの得点を決め、スランプから抜け出すと、大一番となった33節G大阪戦で2ゴール。そして最終節の浦和戦では内田篤人の低いクロスに体ごと突っ込むダイビングヘッドを決め、これが決勝点。敵地埼玉スタジアムで1-0と快勝し、2位川崎Fを振り切り、通算7度目のリーグ優勝、前人未到の3連覇を達成した。個人としても12得点を決め、初の2桁得点。チームを代表するストライカーとなった。

それ以降は毎年のように背番号を目標数に掲げてきたが、2010年は8ゴール、そして2011年はわずか4ゴールと調子を崩してしまう。それでも、2010シーズンは天皇杯優勝。2011、2012シーズンはJリーグヤマザキナビスコカップ(現:JリーグYBCルヴァンカップ)で優勝するなど、チームタイトルには貢献してきた。

2012シーズンは開幕から3戦はベンチスタートとなったが、第4節の横浜FM戦でスタメンを勝ち取ると、第5節の浦和戦のシーズン初ゴールを皮切りに4試合連続得点をマークした。しかし、夏場になると得点を取れない時期が続く。その間にチームでは大迫勇也が1トップを務めるようになり、興梠の居場所はFWではなくサイドのMFへと変わっていっていった。この年で鹿島との契約は満了。オファーを受けた浦和へ移籍する。鹿島では、192試合に出場して49得点をマークした。

浦和へ移籍、点取り屋の本領発揮

移籍初年の2013年はミハイロ・ペトロビッチ監督の下、1トップとして起用され、33試合に出場し、13得点を挙げ、信頼を勝ち取った。翌2014年は優勝争いをするチーム内で最多の12得点を挙げていたが、第30節の鹿島戦で右腓骨を骨折。戦線離脱を余儀なくされた。

2015年はコンスタントに活躍し、1stステージ優勝に貢献。翌2016年は2ndステージとJリーグYBCルヴァンカップを制覇。個人としてもJ1リーグ史上12人目となる通算100得点を達成した年となった。

2017年は第6節仙台戦でハットトリックを決めるとシーズン通して20得点と大爆発。福田正博以来、浦和の日本人選手として2人目のシーズン20得点を決めた選手となり、初のベストイレブンにも選ばれた。また、クラブとして2007年以来、10年ぶりにACLを優勝。現在ACLの67試合で26得点と日本人最多出場と最多得点を誇っている(2020年3月10日現在)。FIFAクラブワールドカップでは準々決勝でアル・ジャジーラ(アラブ首長国連邦)に敗れたが、充実したシーズンとなった。

2019年は15得点を決め、川崎の小林悠と並び日本人得点王に。2019年には12得点を挙げ、鹿島の最終年から続く、史上初8年連続2桁得点を達成。この記録は現在も継続中だ。2020年は第3節仙台戦で決勝点を決め、浦和で初めてJ1通算100得点を記録した選手となった。

リオ五輪 オーバーエイジで日の丸背負う

代表には岡田武史監督の下、2008年に初招集。同年10月9日のアラブ首長国連邦戦で代表初キャップ。同15日の南アフリカワールドカップアジア最終予選のウズベキスタン戦にも出場したが、ワールドカップメンバーには選出されなかった。その後、しばらく代表からは遠ざかったが、ヴァイッド・ハリルホジッチが監督を務める2015年7月、EAFF東アジアカップ2015で約4年ぶりに代表復帰した。

A代表では16試合出場無得点に終わっている。先発は3試合と主に流れを変えるジョーカー的な役割として起用されてきた。

そして、日の丸のユニフォームで一番の転機は2016年、リオジャネイロ五輪にオーバーエイジ枠で選出されたことだ。塩谷司(広島)、藤春廣輝(G大阪)とオーバーエイジで出場したが、当初、興梠はオファーに対して一度断りを入れている。リオ五輪に出場すると最大でリーグ戦2ndステージの5試合を欠場してしまうため、クラブでのタイトルを優先する興梠は、五輪代表への思いを断ったが、手倉森誠監督から直接ラブコールを送られたことに決断を覆らせた。

五輪本番ではグループリーグ全3試合に先発出場。初戦のナイジェリア戦に先発出場し、一時は同点となるPKを決めたが、4-5で敗戦。続くコロンビア戦は2-2と引き分け最終戦に望みをつなぎ、最終戦でスウェーデンに1-0で勝利したが、グループリーグ敗戦となった。

<興梠 慎三のプレースタイル・特徴>

歴代屈指のオールラウンダー 抜群の決定力でゴール量産

「なんでもできる」-。これが興梠の特徴だが、その中でも「特に」紹介したい興梠のスキルがある。ゴールを量産してきた答えを明かしていく。

右足、左足、頭…シュートパターンが豊富

興梠がJリーグの歴史に名を刻むFWとなったひとつの特徴としてシュートパターンが豊富なことが挙げられるだろう。クロスに対して頭でも、ボレーでも合わせることができ、スピードを生かした裏への抜け出しや浦和のパスサッカーのフィニッシャー、さらに自分でドリブルで持ち込んでシュートも決められる。両足から繰り出されるシュートテクニックも見事だ。

ゴール前の駆け引き

身長175センチにもかかわらず、ヘディングでもゴールが決められるのは、しっかりとDFとの駆け引きに勝っているからである。裏への飛び出しも駆け引きの賜物。ゴール前でキックフェイントや華麗なシュートテクニックが出せるのは、ゴール前でも冷静な証拠である。

身長175センチだが、光るポストプレーの強さ

決して恵まれた体格とは言えないが、ポストプレーは興梠の大きな魅力だろう。圧倒的な身体能力から生み出す、球際の強さ、相手を背負ってでも関係なくボールの勢いを吸収するようなトラップ、そして天才的な浮き球の処理で攻撃の起点となる。

ツイッター上では「興梠はTHE万能ストライカーだよね。ゴールのバリエーションが豊富でDFからしたら本当に厄介だよなぁ」「ポストプレーは日本人で大迫の次にうまい。そして、流れによっては大迫よりゴールを決められる」「オフザボールのとき、ずっとDFと駆け引きしている」とのコメントがあった。

<興梠 慎三の今後について>

数あるオファーから残留…生涯浦和宣言か?

10年連続2桁得点がかかるシーズン

今年35歳になるシーズンだが、前年まで9年連続2桁得点をマークしており、安定感、信頼感は変わらない。しかし、昨年12月19日のリーグ最終節札幌戦で負傷し、同21日に右腓骨筋腱脱臼の手術を受け、全治3カ月となった。今シーズンの開幕にはもちろん間に合わなかったが、驚異的な回復を見せ3月10日のJ1第3節横浜FC戦で途中出場で復帰した。

チームは攻撃陣に不安

今季の浦和は徳島を4シーズン率いたリカルド・ロドリゲスを新監督に迎えたが、昨季チーム内得点王のブラジル人FWレオナルドが中国1部リーグの山東泰山に移籍。規律違反があった柏木陽介の移籍が決まるなど、攻撃陣は不安を抱えており、興梠のシーズン序盤での復帰は好材料。個人としても10年連続2桁得点の節目がかかるシーズンだけにエースストライカーとして責務を全うする。

昨季は複数年契約の最終年でクラブ側から提示された契約延長のオファーに加え、国内の複数クラブが獲得に向けて興味を示していた中、浦和に残留することを決断した。契約の詳細は分かっていないが、クラブから契約を切らない限りは浦和愛を貫きそうだ。

代表復帰は非現実的か?

34歳という年齢もあり、日本代表入りは現実的ではないだろう。代表キャップは16だが、代表、海外組クラスのクオリティの選手であることは間違いない。その選手がJリーグでプレーしていることはリーグのレベル向上に貢献している。